ポチの出会った人

2007年12月 8日 (土)

医者、用水路を拓くー-中村哲の生き様を学ぶ

 ポチです。
 年の瀬も迫り、あわただしい今日この頃、みなさまいかがお過ごしでしょうか。私は、依然として仕事の山と格闘しています。そのうえさらに、先日、上司から「年明けに大きな仕事が入る可能性があるので、いつでもとりかかれるように準備を始めよ」と言われ、へこんでいます。
 ホントにできるのだろうかと不安な日々を過ごしています。



 で、今日は、延び延びになっている中村哲さんの講演会のことを書きます。
 なぜ、延び延びになっていたかというと、もちろん、仕事に追われ、書きかけては中断、、また書いては中断を繰り返していたからなのですが、それだけではありません。

 講演会そのものは、中村さんが、写真を紹介しながら、淡々と、ときおりジョークをまじえつつ話されたのです。驚きと感動の連続でしたが、それは、彼が、彼らがやりとげてきたことの驚きと感動でした。そして、飄々と話す中村さんからは、それをやりとげるうえで彼が、彼らが乗り越えてきたとてつもない苦難や障害については思いを馳せることができませんでした。
 私は、ただ単に、話を聞いた驚きと感動をレポートしようと思ったのです。

 ところが、ところが・・・・。

 実は、私は、講演会の会場で、中村さんの近著「医者、用水路を拓く」を買い求めました。中村さんのサインも入っていました。

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 この本を読み始めて、愕然としたのです。講演会での飄々とした中村さんの姿はそこにはありませんでした。
 あるのは、激しい怒り、嘆き、悲しみ、そして、いらだち・・・・・。

 米軍の爆撃の恐怖とのたたかいはもちろん、何を言っても受けつけてもらえない報復戦争開始前後の冷静さを失い狂気と興奮に支配された日本の世論、憶測と事実誤認にもとづく「人道支援」、現地の常識や文化を無視し欧米の常識を振りかざしての「民主化」押し付け、カネにあかし事態をますます悪化させる各国NGOのやり方・・・・・、そして、ご家族の不幸。彼は、これらと壮絶なたたかいをしてきたのです。
 現地で、人の命を守ろうと死に物狂いになってがんばっている人から見た、アメリカ軍やブッシュ大統領、日本政府や自衛隊、日本人、欧米人、「反戦家」、NGOです。
 この本を読むまでは、思いもよらないことだらけでした。


 「安易に講演会のレポートを書いていいものだろうか」「講演会のレポートでは、けっして、彼の思いは伝わらない」。
 どうするかを悩みました。
 仕事のほかに、延び延びになっていたもう一つの理由がここにありました。


 しかし、私などが、中村さんの熱い思いの内を代弁することなどできるはずもありません。中村さんの思いを理解するには、中村さんの本を読み、話を聞くしかありません。私にできることは、できるだけ早く講演会のレポートを仕上げ、中村さんの本を読んでほしいとよびかけることではないかと思いました。


 以下の文章のほとんど(とくに前半部分)は、ここまでに書いたもの以前に書いたものです(部分的に書き加えています)。ですから、上の文章にそぐわないオチャラケたところがあることをお許しください。
 では、中村哲講演会のレポートです。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 実は、当日、ICレコーダーをもって行っていて、すべてを録音したつもりでした。これを書こうと思って聞いてみると・・・・・録音されていない・・・・・・。

 ショック!!

 録音があるからと思ってメモもとっていませんでした。
 ということで、記憶を頼りに書くことにします。


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 11月20日、山口市の県立大学でペシャワール会の中村哲さんの講演会がおこなわれました。
 新聞で、講演会のことを知った私は、「これはなんとしても行かなければ」と心に誓いました。しかし、講演会は平日の昼間。仕事を山のように抱えている身であり、悩みに悩んだのですが、体調の悪い母親をダシにして、「母を病院につれていくので、ちょっと仕事を抜けます」などと嘘をついて仕事をさぼって、無事行ってきました。行き、帰りとも、超法規的なスピードで運転したことは言うまでもありません。

 ヨレヨレのスーツ姿で登壇した中村さんは、その日の朝、タイから福岡空港について、会場に直行したそうで、「なんとか間に合いました」と話しておられました。この講演会の後、何日か日本にいて、各地で講演をされるそうで、しょっぱなが山口でした。


 講演は、スライドを使ってすすめられました。
 最初に、中村さんは、アフガニスタンというところはどういうところなのかについて話されました。
 アフガニスタンというのは山岳国家だそうです。7000メートル級の山々がつらなるヒンズクシー山脈の西の地域です。
 私たちが新聞やテレビなどで観るのは首都カーブル(一般的には「カブール」だと思うのですが、中村さんは講演の中で「カーブル」と言われており、著書でも「カーブル」と表記してありましたので、私もその方を使います)。

 で、驚くのは次の写真(写真はクリックすると大きくなりますので、よかったらどうぞ)。
 わかりますかね。山の急斜面にある集落です(写真が斜めになっているのは、私が会場の左寄りの席に座っていたからです。見にくくてすみません)。

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 これは特殊な集落ではありません。ほとんどの集落が、こんな風に、山の急斜面にできているそうです。

 ペシャワールのあるパキスタン北西辺境州とアフガニスタン東部の地図です。

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 中村さんは、このペシャワールに1984年に、ハンセン病コントロール計画のために赴任されました。最初に、行った時は、壊れかけた診療所に、使おうとすると耳を怪我してしまう壊れた聴診器しかない状態だったそうです。その時の写真も紹介されたのですが、撮り損ねてしまいました。
 そして、多数のハンセン病患者の治療に当たりつつ、ハンセン病だけ診ていたのではだめだということに気づかされます。ハンセン病は感染症です。ハンセン病が広がる地域には、同じ感染症であるマラリアや腸チフスなども広がっています。そして、ペシャワールを本部に、アフガニスタンでの僻地医療に乗り出します。首都カーブルはもちろん、北部山岳地域などに次々に診療所を開設していきました。

 以来、23年間、アフガン難民をはじめ、地域の方の医療に携わってこられました。「頭の方は自信はないが、体力には自信があったので、歩いて山岳地帯を歩き、集落を訪ねて診療をした」と言われていました。
 下は、その当時の写真です。真ん中が中村さん。

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 次の写真は、いま、ペシャワールにあるPMS(ペシャワール医療サービス)の病院です。中村さんが赴任した当時からは比べものにならないくらい立派な病院ですね。

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 2000年、アフガニスタン全土を大旱魃(かんばつ)が襲います。
 以下は、中村さんの著書からの引用です。長くなりますが、状況がリアルにわかると思いますので・・・・。

 2000年5月以来、PMSのダラエヌール診療所は多忙を極めていた。ダラエヌールは、アフガン東部最大の都市・ジャララバードから北東へ30キロメートルにある大渓谷で、約4万人が居住するといわれる。その年の春、かつて豊富な水で知られた渓谷は、異常な渇水で人々の生活を脅かした。
 渓谷の川の源流は、「ケシュマンド山系」と呼ばれるヒンズークッシュ山脈の支脈で、最高峰はクンド山(標高4300メートル)、いつもなら万年雪を戴き、春先に激しい雪解け水が押し寄せる。水は年間を通じて途切れなく流れ、農耕を支え、多くの人口を擁してきた。しかし、この年は雨季の冬に降雨・降雪がほとんど見られず、主食である冬小麦の収穫は大打撃を受けた。特に渓谷中流域のカライシャヒ村、下流域のアムラ村、ソリジ村、ブディアライ村は惨憺たる状態となった。
 緑の広大な田畑が土漠の原野に帰し、木々が立ち枯れ始めた。農民たちは一斉に村を退避し始め、ブディアライ村では、二軒を残して無人化した。診療所で多かったのは、赤痢などの下痢症で、不幸にして救命できぬことが稀ではなかった。時には数日かけて幼い児を胸に抱きしめてやってくる若い母親たちの姿があった。
 大旱魃である。同年6月、WHO(世界保健機構)の発表は私たちを震撼させた。
 「ユーラシア大陸中央部に進行する未曾有の大旱魃は、イラン、イラク、アフガニスタン、パキスタン、インド北部、中国など広範囲に及び、被災者は7000万人と見積もられる。最も激烈な被害を受けたのはアフガニスタンで、1200万人が被災し、飢餓線上の者400万人、餓死線上の者100万人と推測される(WHO・2000年5月)」
 アフガニスタンを襲った大旱魃は、診療所付近だけではなかったのだ。100万人が飢餓線上という数字は誇張ではないと思った。実際、診療所付近で落命する患者たちは、ほとんどが小児であった。栄養失調で弱っているところに汚水を口にし、赤痢にかかる。健康なら簡単に死ぬことはないが、背景に食糧不足と脱水があると致命的である。子どもだけではない。多くの病気は十分な食糧と清潔な飲み水さえあれば罹らぬものであった。
 流民化した村人たちが続々とジャララバードやペシャワールに難を逃れ、修羅場を現出した。2000年7月、ダラエヌール診療所は、残った村人を集め、飲料水源確保に全力が注がれた。これが我々の「水資源確保事業」の発端であった。
 その後の展開は、「激動」と呼ぶにふさわしい。大混乱の中にあっても、私たちの活動は休みなく継続された。



 下の写真は、当時のダラエヌール診療所のそばを写したものだそうです。

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 ちなみに、中村さんたちの水資源確保の努力で、その後、これと同じ場所がどうなったかというと、下の写真です。
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 今、アフガニスタンに求められているのは個別の医療活動ではない。医療以前の問題。「百の診療所より一つの井戸」。住民を救う道は水の確保だ、と思い定めた中村さんは、白衣を脱ぎ、井戸堀をはじめることになります。

 普通の井戸、アフガン式の横堀で地下水を掘り出すカレーズ(中村さんは、「カレーズという名前なんですが、これがしばしば枯れるんですヨ」と冗談を言って聴衆を笑わせました)、そして、水路から巨大な用水路にまで事業は発展していきます。
 その結果、今年8月時点で、井戸を1500本掘り、農業用水路は第一期13キロメートルを竣工、既に千数百万町歩を潤し、さらに数千町歩の灌漑が目前に迫っていると報告されています。



 そんな時、9・11が起こりました。
 2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易ビルにアルカイダにハイジャックされた旅客機が突っ込みました。

 その直後に中村さんが書いた記録が著書に掲載されていました。これも長くなりますが、当時のリアルな状況と中村さんの思いを理解するうえで大切だと思ったので、引用することにします。


 大規模な軍事報復を予想して、車両・機材を安全地帯と思える場所に移動させ、薬剤はPMS診療所があるダラエヌール渓谷に移し、数ヶ月の篭城に耐えるように指示した。5ヶ所に診療所を持つカーブルには伝令を送り、ペシャワールに家族のある職員はペシャワールに戻らせ、カーブル市内に家族のある者はその意志に委ねた。
 旱魃対策の要であった水資源確保の事務所はジャララバードに置かれており、若い日本人ワーカーたちもここに寝起きしていた。「PMS・水対策事務所」の職員74名は、金曜日の休みであったにもかかわらず、同日午前7時に異例の招集をかけられ終結(原文のまま)していた。
 意外に町は平静であった。黙々と日々の営みがおこなわれていたが、それは事情を知らないからではない。相変わらずBBCはパシュットゥ語放送で米国の動きを伝えていたし、職員の誰もが日本人大衆よりは驚くほど正確に事態を判断していた。実際、ジャララバードには3年前にも米国の巡航ミサイル攻撃が集中した。今度は更に大規模な空爆が行われるだろうとは百も承知の上のことである。
 粛々と何かに備えるように--といっても、「米国憎し」と戦意をたぎらすわけでもなく、ただひたすらその日を生き、後は神に委ねると述べるのが正確であろう。緊迫した決意であっても、そこには騒々しい主張や狼狽はいささかも感じられなかった。
 私は、集まった職員たちに手短に事情を説明した。「日本人ワーカーを帰す言い訳を述べ(ポチ注=大使館から撤退を要求されていた。中村さんは、抵抗はしたものの大使館の立場も汲み「一時撤退」ということで引き上げることを受け入れた)、かつ士気を保つように」との水源事業担当の蓮岡の求めだったが、より感傷的になっていたのはおそらく私の方だったろう。
 「諸君、この一年、君たちの協力で、20数万名の人々が村を捨てず助かり、命をつなぎえたことを感謝します。すでにお聞きのように、米国による報復で、この町も危険にさらされています。しかし、私たちは帰ってきます。PMSが諸君を見捨てることはないでしょう。死を恐れてはなりません。しかし、私たちの死は他の人々のために意味を持つべきです。緊急時が去ったあかつきには、また共に汗を流して働きましょう。この一週間は休暇とし、家族退避の備えをしてください。9月23日に作業を再開します。プロジェクトに絶対変更はありません」
 長老格のタラフダールが立ち上がり、私たちへの感謝を述べた。
 「皆さん、世界には二種類の人間があるだけです。無欲に他人を思う人、そして己の利益のみを図ることで心がくもった人です。PMSはいずれか、お分かりでしょう。私たちはあなたたち日本人を永久に忘れません」
 これは既に決別の辞であった。
 家族をアフガン内に抱える者は、誰一人ペシャワールに逃れようとしなかった。その粛然たる落ち着いた笑顔に、内心忸怩たるものを感じぜずにはおれなかった。再会する可能性がないとお互いに知りつつ敢てカーブルへと旅立つ一人の医師を、「神のご加護を」と抱擁して見送った。

 帰国してから、日本中が沸き返る「米国対タリバーン」という対決の構図が、ひどく作為的な気がした。淡々と日常の生を刻む人々の姿が忘れられなかった。昼夜を問わずテレビが未知の国「アフガニスタン」を騒々しく報道する。ブッシュ大統領が「強いアメリカ」を叫んで報復の雄叫びを上げ、米国人が喝采する。湧き出した評論家がアフガン情勢を語る。これが芝居でなければ、みな何かにとり憑かれているように思えた。私たちの文明は大地から足が浮いてしまったのだ。
 全ては砂漠の彼方にゆらめく蜃気楼の如く、真実とは遠い出来事である。それが無性に悲しかった。アフガニスタン! 茶褐色の動かぬ大地、労苦を共に水を得て喜び合った村人、井戸掘りを手伝うタリバーン兵士たちの人懐っこい顔、憂いをたたえて逝った仏像--尽きぬ回顧の中で確かなのは、漠漠たる水なし地獄にもかかわらず、アフガニスタンが私に動かぬ「人間」を見せてくれたことである。「自由と民主主義」は今、テロ報復で大規模な殺戮を展開しようとしている。おそらく累々たる罪なき人々の屍の山を見たとき、夢見の悪い後悔と痛みを覚えるのは、報復者その人であろう。瀕死の小国に世界中の超大国が束になり、果たして何を守ろうとするのか、素朴な疑問である。
                                 (2001年9月22日)



 9月以降、ペシャワールに、各国のNGOなどの団体が集まってきます。「空爆が始まればペシャワールに難民が逃れてくる。その支援が必要だ」というのが、その理由でした。

 講演では一言も触れられませんでしたが、著書の中で中村さんはこれらの団体に対して厳しい批判をおこなっています。長くなるのでここでは割愛します。

 中村さんたちPMSは、これらの団体がまったく的外れのことをしていることがわかっていました。なぜなら、多少裕福な市民は、この時点では既にペシャワールに逃れており、カーブルに残っているのは、逃れることのできない飢餓避難民であること、空爆が始まったとしても彼らは逃れることは不可能であるからです。
 中村さんは、著書の中で、こう叫んでおられます。

 「本当に緊急に支援が必要なのは今!アフガン国内なのだ。米国の空爆を前提として国外で避難民を待つよりは、避難民を出さない努力、即ち暴力的な報復爆撃をやめる努力が必要だった」

 と。
 そして、中村さんという人間のすさまじさは、叫ぶだけではなかったことです。


 こうしたなかでも、井戸掘りは部分的には続行され、3つのアフガン東部の診療所、カーブルの5つの診療所は運営を続けられていたそうです。
 そして、9月下旬、中村さんは決断し、指示を出します。

 「残ったカネをはたいて食糧を買い、空爆前にカーブルで配給せよ。医療関係、水関係を問わず、PMS総力をあげて実行されたし」


 中村さんは著書でこのときのことをこう書かれています。

 やけくそと言うよりは、最前線の部隊が最後の吶喊を敢行、「せめて刺し違えてでも」という心情に近かった。世界中が寄ってたかって「アフガニスタン」を論じている間にも、飢えた人々が彷徨い、病人が死んでゆく、「国際世論の愚かな騒ぎに付き合っている暇はない」と思わざるを得なかったのである。
 だが、この「食糧緊急支援」の指示は、パキスタン・アフガニスタン両国籍の職員の心に灯をともした。それまで、テレビやラジオのスイッチを押せば、いつ空爆が始まるか、どこがやられるか、イスラムの非民主制や後進性、米国民の怒りなど、元気の出ないニュースばかりが流される。イスラム教徒であることがまるで罪人であるかのような錯覚さえ持たされる。自分たちはこれからどうなるのか、いったいどうしたらよいのか、不安と迷いが支配していた。反米義勇軍に志願したり、外国に逃亡したりする者も後を絶たない。--こんな中で、一つの明確な大義と指針を得た気がしたのである。
 正義・不正義とは明確な二分法で分けられるものではない。敢えて「変わらぬ大義」と呼べるものがあるとすれば、それは弱いものを助け、命を尊重することである。それなのに、世界中が何かに気兼ねして、当たり前のことが公言できない雰囲気である。あの状況下で、「院長命令で」、その大義を堂々と掲げて実施できる、そのことに皆の気持ちが束ねられたのである。
 こうしてペシャワールとジャララバード現地で、職員たちの猛烈な活動が始まった。
 私はと言えば、当面の全精力を資金調達に注ぐことが使命だと信じた。政治的と取られるスローガンを一切掲げず、ひたすら「命の尊さ」を訴えることである。「わしは犯罪以外なら、何でもやる。君らは送られるカネでひたすら食糧を買い込み、速やかにカーブルに送れ」と厳命して、再び日本へ発った。



 資金集めの当初の目標であった2億円は、10月末までに突破。翌年1月には6億円に迫ったそうです。
 なかには、同時多発テロ事件の犠牲者遺族からも募金が寄せられたそうです。その方は、戦中に青春を過ごされた方だそうで、添えられていたメッセージが著書の中で紹介されていました。

 「--犯人たちがただの殺人鬼でなかったことを願うばかりです。息子を亡くしたことは悲しいですけれども、自分も特攻隊の青年たちのことを思えば、いくばくかの同情を禁じえません。補償金の半分をテロ事件の犠牲者に,、半分を貴会に献じます。アフガニスタンで犠牲になる人命のため、お役立てください」


 もちろん、講演では、こんな話はまったくなく、食糧支援をおこなったという事実だけが話されました。


 10月9日、とうとう空爆が始まりました。「空爆前に」ということは果たせませんでした。しかし、中村さんたちは、空爆下のカーブルへの食糧配給を強行します。
 10月15日、20人の志願した有志職員によって、第一陣、小麦粉と食用油を満載した50トン積みダンプカー12台がカーブルに出発しました。
 3隊に分けて、空爆を受けて1隊が任務を遂行できなくなっても、他の隊が任務を果たせるようにしました。
 次の写真は、現地に到着し、配給するPMSのトラックと集まった民衆です。

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 さらに、第2陣、第3陣と続けられ、2ヶ月間に1800トンの小麦粉と20万リットルの食糧油が送られ、飢餓に直面した15万人が冬を越せることになりました。



 旱魃は収まりませんでした。井戸やカレーズの確保はすすんでいましたが、地下水位が低下し、井戸が枯れはじめ、維持作業も追いつきませんでした。
 その頃、アフガンは、砂漠化した各地から流民が大都市に集まり難民化していました。空爆も拡大の一途をたどっていました。もう一刻の猶予もなりません。
 そこで、中村さんは、「農村の回復なくしてアフガニスタンの再生なし」という立場から、灌漑用の用水路の建設をすることを決意します。食糧配給用に寄せられた寄付の余りを全てつぎ込む第1期工事13キロ、総延長20キロの用水路です。

 2003年3月12日、中村さんは、ジャララバード事務所の職員一同を集め、計画を宣言します。

 「諸君、この2年間、飲料水確保、カレーズ再生、空爆下の食糧配給と、PMSの旗の下、多くの同胞たちが君たちの活動で救われてきた。今、米軍の進駐にともなって大きな変化がアフガニスタンに起きようとしている。多くの国際団体がやってくるだろう。
 しかし、我々の活動は変化しない。どんな政治勢力がやってこようと、人々の厄災が続く限り、私は君たちと居るだろう。我々はこれまで方針を変えなかったし、これからも変えることはない。混乱が続き、多くの外国人が出たり入ったりするだろう。君たちの中にも、辞める者があるかもしれない。
 しかし、勘違いしてはならない。これまでのPMSの仕事は手始めであった。今後、更に大きな挑戦に乗り出すだろう。今、周囲を見たまえ、どれだけのアフガン人が故郷で安心して暮らせるだろうか、食べ物はなし、緑はなし、カネはなし、水さえないのだ。
 アフガン復興は、外国人だけの手に委ねられるものではない。君たち自身の手によらねばならぬ。干からびた大地を緑に変え、本当に実のある支援を我々は目指す。その大きな挑戦として、用水路を建設して豊かな故郷を取り戻す。議論は無用である。一致して協力し、復興の範を示すことが我々の使命である。これは、我々の武器なき戦である」
                          (「医者、用水路を拓く」より)



 日本なら、大金を積んでゼネコンに依頼すれば、コンクリートに固められた用水路ができたかもしれません。
 しかし、そんなお金はありません。
 素人たちによる試行錯誤が始まりました。
 中村さんは、アフガニスタンはもとより、日本でも川を見てまわり研究します。「江戸時代の日本の土木事業が大変役に立った」と言われました。
 次の写真は、全長13キロに及ぶ用水路の見取り図です。

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 護岸は、コンクリートで築くことは不可能でした。もちろん、資金が足りませんし、巨大なコンクリートブロックを設置する重機がありません。
 しかも、コンクリート護岸は、何年かたつと壊れてしまい、現地での修復は不可能です。
 中村さんたちは、蛇籠工法と柳枝工を選びます。
 蛇籠とは、鉄線で籠をつくり、現地に無尽蔵にある石を入れてブロックにし、それを積んで護岸にするものです。それだと、何かの力が水路に加わっても、ブロック自体が変形して護岸を守ります。
 柳枝工とは、護岸の上に繁殖力旺盛な柳を植え、蛇籠の背面から水路の底に無数の細い根を張り出し、水路を守ります。また、蛇籠とその中の石の間にも根を張り巡らせ、蛇籠ブロックを守り、蛇籠の鉄が腐食したあとでも、柳の根がブロックを守ります。

 下の写真は、実際に、蛇籠工法と柳枝工でつくられた現地の用水路です。蛇籠の護岸がわかるでしょうか?

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 厚い岩盤の壁を乗り越え、様々な理由による地域住民などとの軋轢、枯渇する資金など、困難は山ほどあったようです。
 時には、米軍による機銃掃射の攻撃も。
 下の写真がわかるでしょうか?写真の中央あたりに飛んでいるのが米軍のヘリです。
 用水路建設中に、米軍のヘリコプターが突然機銃掃射をしてきたそうです。中村さんらは強く抗議しました。日本大使館の説明によると、抗議に対して米軍当局は、「我々は、疑わしきは攻撃してから、確認する」とこたえたそうです。

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 そして、第一期工事13キロがついに完成します。
 下の写真を見てください。一面、砂漠化した大地です。

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 次の写真は、用水路が完成した後の上の写真と同じ場所です。
 砂漠の大地が緑の大地に変貌してきている姿が目の当たりにされます。

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 住民たちは歓声を上げ、水路に飛び込む者、家畜をつれて水浴びをさせる者など、大変な騒ぎになったそうです。

 そして、この用水路から、分水路が張り巡らされ、農地に水が行き渡ります。中村さんたちは、試験農場をつくり、この地に適した農作物を見つけていきます。
 中村さんたちが現在、適した作物として奨励しているのは、サツマイモとソバだそうです。
 下の写真は、その試験農場の様子です。

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 「用水路がつくられている」と聞いた人々が、次々に故郷に帰ってきました。そして、用水路事業に加わってきます。
 何の宣伝もしていないのに、旱魃のため農地を捨てて都市に出て難民化していた住民が、「用水路ができた」といううわさを聞いて、大挙して戻ってきました。下は、その時の様子を写した写真です。

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 4つ前の砂漠化した大地の写真の真ん中下に2つの小屋が写っていると思います。この小屋には、当時、大きな看板が掲げてあって、「難民帰還計画・住居計画」と書いてあったそうです。国連のプロジェクトです。
 机の上で考えたどんな立派なプロジェクトがあっても、どれだけの大金がそのプロジェクトのためにつぎ込まれたとしても、水がなければ人々が戻ってくることは不可能です。
 中村さんは、「『用水路ができる』という噂話の方が、どんな立派な難民帰還プロジェクトよりもすぐれていたということです」と話されていました。



 中村さんは、PMSが現地で活動できたのは、アフガン人の「日本への親密度」があったからだと言います。
 大半のアフガン人は、アフガニスタンと日本の独立が同じ日だと信じているそうです。そして、どんな山奥に行っても、住民は日本のことを知っていました。アフガン人たちが日本について連想するのは、日露戦争とヒロシマ・ナガサキだそうです。
 日露戦争については、100年前のアジアは、ほとんどの国が欧米の列強の植民地ないしは半植民地とされ、かろうじて独立していたのは、日本とアフガニスタンでした。そこで、極東の小国・日本が、時の大国・ロシアを撃退した。「小国であっても大国に立ち向かって独立を守った日本」という強いイメージがあるそうです。
 ヒロシマ・ナガサキは、単に大量殺戮への同情ではなく、その後、あの廃墟から立ち直って繁栄していること、そして、「繁栄した国はたいてい戦争をするが、日本は半世紀にわたって他国に軍事干渉しなかった」という賞賛、「平和国家・日本」「戦争で儲けない国・日本」というイメージです。
 かなりの誤解は含んでいるとは思いますが、他国からの干渉を受け続けてきたアフガンの国民にとって、国としての理想の姿を求めた結果なのでしょう。

 中村さんは言います。「日本人であることが、最大の安全保障だった。しかし、昨今の『国際貢献』や「国際社会に伍して』という主張は、これらを自ら葬り去るものであった」と。




 中村さんは、講演の最後に、おおむね次のように言われました。うろ覚えなので、あしからず。
 「この間の活動を通じて感じるのは、『助けることは助かることだ』ということです。金さえあれば、武器さえあれば何でもできるという迷信から自由になり、人間が最後まで失ってはならない誇りということを学ぶことができました」



 いま、PMSは、大きな変化をすることを求められています。パキスタン政府の横槍により、ペシャワールでの医療活動を続けることが困難になり、ペシャワールを撤収し、基地病院をジャララバードに移す活動がすすめられています。
 用水路の第2期工事や農業、植樹の活動も旺盛におこなわれています。


 最後に、著書「医者、用水路を拓く」の「あとがき」の終わりの部分を引用しておきます。

 --日照りの夏には涙を流し、恵みの雨に感謝する。用水路が延びて砂漠に水が流れ、緑地が増える毎に皆と小躍りする。外国兵の横暴に憤り、親しいものが死ねば悲しみ、病で斃れる子に胸を痛め、収穫が多ければ共に感謝する。それだけのことだ。そして、それ以外に何ができるのだ。
 上空を軍用機がけたたましく飛び交い、私たちは地上で汗を流す。彼らは殺すために飛び、人々は生きるために働く。彼らは脅え、人々は楽天的だ。彼らは大げさに武装し、人々は埃まみれのオンボロ姿だ。彼らは何かを守るが、人々には失うものがない。
 「民主国家? テロ戦争? それがどうしたって言うんだい。外人とお偉方の言うことは、どうも解からねえ。俺たちは国際正義とやらにだまされ、殺されてきたのさ。ルース(ロシア=ソ連)もアングレーズ(英米人)も、まっぴらだ。世の中、とっくの昔に狂ってる。だから預言者も出てきたのさ。それでも、こうして生かせてもらってる。やつらのお陰じゃあない。神の御慈悲だよ。まっとうに生きてりゃ、怖いことがあるものか」
 これが、人々と共有できる私の心情でもある。

 最後になりましたが、本書は心ある日本の方々、その平和への願いから生まれた結実の報告だともいえます。私の現地活動が長いとはいえ、これほどの仕事は2万人の会員と支援者の支えがなければ出来なかったでしょう。私たちが募金だけで年間3億円に上る事業がこなせているのは、大きな意味がありました。「平和主義」という理念上の問題ではありません。平和が武力に勝る力であることを実証し、本当に現地の民衆に必要とされるものを自由に汲み取り、緩急自在、ある程度の試行錯誤が許され、実のある事業を継続できたのは、自分が参加するように献じられた良心的な募金に支えられていたからです。
 現地事業は、野心や利害、対立や矛盾を超え、日本と現地の人々との共通の良心の協力だと述べて、少しも誇張ではないと思います。紙面を借り、日本ペシャワール会と多くの支援者、日本人ワーカーたちの働きに心から感謝します。(後略)


 長い長いレポートは以上です。
 これを書くために、中村さんの著書を再読するたびに、流れそうになる涙をとめられませんでした。

 いままで、自分のブログに書いたものをみなさんに読んでほしいと思ったことは一度もありません。自分勝手な書きなぐりでしたから。
 でも、このエントリに関しては、できるだけ多くの人に読んでほしいと強く思っています。長く、そして稚拙な文章ですが、中村哲という男の生き様を少しでも多くの人に知ってもらいたいと思ったからです。


 長くて、読みづらい文章を最後まで読んでいただいてありがとうございます。
 心から感謝しているポチでした。
 では、また。

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2007年2月12日 (月)

「えひめ丸」追悼

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 ポチです。
 眠ています。夜寝る時は毎晩、お父さんの布団の上で寝ます。お父さんが、晩酌をして、酔っ払って、まだ、お母さんやお姉ちゃんは起きているのに、「おやすみ」って言って二階に上がるとき、いっしょについて上がり、お父さんの布団にもぐりこむのです。

 このBLOGを始めたのが昨年の12月13日。で、今日でちょうど2ヶ月になります。何を書くのかもハッキリせずに、とくにこれといって目的もなく、「エイヤッ」とばかりにとにかく始めたBLOGでした。読み返してみると、恥ずかしい限りです。

 書き方に、すごい動揺が見られます。なんか、BLOGって軽く書かなきゃいけないと思い込んでいて、最初の頃の書き方って、ホント軽すぎっていうか・・・。で、途中で、ヘンにえげつなくなって、立場もわきまえず口汚く人をののしってみたりして(この頃は明らかに「きっこ」さんの影響)・・・。最近は、試行錯誤の末、すこしおちついたのかなとは思うんですけど。なんか押し付けがましい文章だなあと思ったり、自分の書いたものに自信がもてずにいます。

 アクセス数を見るとまもなく1900っていうところです。1日で何千ものアクセスがある有名なGLOGに比べたら、ほんのわずかな数ですが、それでも、ポチにとっては、こんな駄文に1900ものアクセスがあったことは驚異です。何かのキーワードで検索してたどり着いた人たちなんだけど、きっと、「フン」って、すぐによそに行かれた方がほとんどだとは思うんだけど・・・。

 マ~、とにかく、2ヶ月間もちました。どこまでもつか、やってみることにしよう。

 で、本題です。
 この10日は、愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」が、ハワイ沖でアメリカの原子力潜水艦に衝突されて沈没した事件から6年目の日でした。高校で、追悼式典があったことが各紙で報じられていました。

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 事件は、突如起こりました。「えひめ丸」がハワイ沖で実習航海している最中、原子力潜水艦「グリーンビル」が前触れもなく浮上してきて、「えひめ丸」に激突したのです。
 「えひめ丸」には、35人が乗船していました。船の底の方にいた9人の方が亡くなり、26人の方が船から投げ出されました。でも、グリーンビルは何の救助活動もせず、見ていただけだったそうです。

 この事件の原因は、いろいろ言われていますが、グリーンビルないしは米軍の方に一方的な非があります。
 最初、グリーンビルは、「訓練中だった」と言いましたが、実は、民間人を16人も乗せて、いわば「観光航行」をしていたことがわかりました。しかも、事件海域は、米軍の訓練海域ではありませんでした。

 海底600メートルに沈んだ「えひめ丸」の引き上げを、当初、米軍は拒否しました。技術的な問題もあったのあもしれませんが、最大の理由は引き上げには膨大な経費ががかかるということでした。遺族の強い要望で最終的には引き上げをするのですが、文化の違いなどもあるのかもしれませんが、事件の原因を一方的につくっておきながら、とても許せない対応だったと強い怒りを感じたことを思い出します。

 なぜ、この事件への思い入れがあるかというと、犠牲者の一人のお父さんと事件後にたまたまお会いし、話を聞かせていただいたことがあるからです。

 この事件で亡くなった方は、さっきも言ったように9人。そのなかに、指導教官として乗船していた中田淳さん(当時33)がおられます。中田さんは、山口県長門市の出身です。この事件のため、ハワイに行かれていて、帰ったばかりの中田さんのお父さんとお話しする機会がありました。
 まだ米軍が船体の引き上げを拒んでいる時期でもあり、中田さんのお父さんは、「とにかく早く引き上げてもらいたい。私が淳にしてやれるのは、そういい続けることくらいしかない」と悲痛な声を上げられていました。
 そして事件の原因について、「現地で話を聞いたが、最初は『民間人は乗せていただけ』だったのが、『民間人のうち2人が操船にかかわった。しかし、事故とは無関係』に変わり、実は、『司令室に16人もいてジャマでソナーも確認できなかった』に変わった。ショーかゲームの感覚じゃないか。内情を知れば知るほど憤りで胸が痛む」と言われました。

 そして、最後にこう言われました。「現地に行っても、息子の帽子一つ、靴の片方すら残ってないんですよ。『どこかの島にうちあげられているのでは』『明日にも帰ってくるのでは』と思えてならないんです。事故を聞いて、頭は真っ白になり、そのときに止まってしまった私の時計は、船が引き上げられ、息子と対面できるまでそのままです」。

 なんともつらいお話でした。中田さんはじめ犠牲になられた方のご冥福を心からお祈りいたします。

 ついでに言っとくと、この事件の一報が入った時、当時の森首相は、ゴルフに興じておいででした。で、一報が入った後も、ゴルフを続け、それまでも低かった支持率がさらに下がり、事件の2ヵ月後に退陣に追い込まれました。
 森さんといえば、郷土のホコリ・アベシンゾーさんのお師匠さん。支持率の低下に悩む弟子もお師匠さんの後を追われているような・・・。

 この事件の後も、潜水艦による民間船舶への事故は起こり続けているそうです。二度とこんな悲惨なことがおこらないよう願っているポチでした。

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2007年1月 7日 (日)

ヘンなおばさん

 ポチです。
 新年早々、出張で東京に行っていて、blogを更新できませんでした。寒い日が続きますが、みなさん、お元気でしょうか。

 ということで、昨日は爆弾低気圧が西日本を暴れまわり、強風が吹き、午後、東京を出たときは雨だったのですが、山口宇部空港につく頃は雪になっていました。で、ポチは、仕事で疲れきって、ぐっすり寝ていたのですが、「まもなく着きマ~ス」というアナウンスで目が覚めました。飛行機が降りるときって、画面に進行方向の映像が出るじゃないですか。もう暗かったのですが、雪が吹き荒れているのが見えるんですね。
 で、滑走路の進入灯の明かりが見えてきて、滑走路が近づいてきたのですが、機体がガタガタ揺れて、あんまり機体が降りきってないなァって気がしてたら、滑走路の上で、エンジンがグゥワ~って出力をあげて、ビュ~ンってまた飛び上がってしまったのです。あの岩国の住民を苦しめているNLP(夜間離着陸訓練)ってのは、こんな感じなのかなァ。

 実は、仕事が終わって、帰るときに、東北方面に帰る同僚に、「西日本は天候が大変らしいゾ。帰れんのか? 『着陸できませんので、大阪に引き返しマ~ス』なんてなるんじゃないの?」って脅されていたので、「まさかナァ~、カンベンしてヨ」って思いつつ、「機長さん、がんばってネ」なんて思っていました。

 で、空港の上を旋回して、また、滑走路の方に進入していくのですが、機体はガタガタ揺れ、浮いたり沈んだりしながら、進んでいきます。
 ポチの斜め前の席に、小さなお子さんを2人連れたお母さんがいて、多分不安そうにしていたのでしょう(ポチは斜め後ろだから顔は見えませんノデ)、後ろ向きに座っているキャビンアテンダントのお姉さんが、「ダイジョウブですよ」っていう感じで微笑んでおられます。

 で、無事着陸。機長さん、がんばりました。引き返すことなく、到着しました。「よかったよかった」って思って、通路を前に進んでいたのですけど、とっくに扉は開いているはずなのに、なぜか行列がつまって前に進みません。それでもジワジワ前に進んでみると、なんと一人のおばさんが、ドンと通路をふさいでキャビンアテンダントのお姉さんにナニゴトか詰め寄っています。お姉さんがそのおばさんを横にずらしたので、開いた通路の横をすり抜けながら、聞こえてきたのは、「どうなっているの!ちゃんと説明しなさい!」っていうおばさんの怒声。
 おいおい、この天候の中、がんばって着陸してくれたのに、感謝しこそすれ、文句言う筋合いはないんじゃないの。だいたい、どんな説明を期待してんだろう。どんな説明を受けたら納得するんだろう。一言文句言わなきゃすまないこんなおばさん、いるんだよなあ、どこにでも。
 お姉さんは、「おっしゃるとおりです。申し訳ありません」なんて、笑顔で話しておられました。なかなかリッパな振る舞いでした。

 ということで、このおばさんの「ヘンなヤツ」つながりで、郷土のホコリ・アベシンちゃんの話をしようと思っていたのです。シンちゃんが、「ホワイトカラーイグザンプションで残業が減る」という、開いた口がふさがらないどころか、口が開きすぎて顎が外れてしまいそうな発言をしていて、このフツウの日本人のジョウシキでは考えられない発想をするオトコの悪口を書こうと思っていたのです。
 ところが、さっき、「きっこのブログ」をみたら、きっこさんがもう書いていた。しかも、小気味いいほどスッキリと。これじゃァ、いくらポチが書いても到底かなわないなァって思って、書くのやめました。

 ということで、おあとがよろしいようで。

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