9・11 ある犠牲者遺族の思い
ポチです。
1週間サボっていましたから、レンチャンで更新します。
今日は9月11日。6年前の今日、アメリカへの「同時多発テロ」がおこりました。
4機の航空機がハイジャックされ、2機はニューヨークの世界貿易センタービルへ、1機は米国防総省へ激突し、もう1機は、ワシントンに向かう途中に墜落しました。
3000人近い方が犠牲者となりました。
そして、アメリカは、翌10月から、テロ対策だと銘打って、アフガンへの空爆を開始しました。アフガン戦争の始まりです。
そして、今も毎日のように罪もない多くの市民が命を奪われています。
6年前のこの日の朝、山口県出身のひとりの青年が世界貿易センタービルにいました。中村匠也さん、当時30歳でした。実家は、山口県豊浦郡菊川町(現在は、合併して下関市)。西日本銀行ニューヨーク支店に勤務されていました。
匠也さんが、ニューヨーク支店に転勤したのは、前年の9月でした。そして、赴任して半年後には、支店の閉鎖が決まりました。9月6日には支店が閉鎖され、その後は残務整理。匠也さんは、すでに航空券も購入し、25日には奥さんとともに帰国することが決まっていました。
そして、11日。匠也さんは、この日も世界貿易センタービル102階にある支店に残務整理のために出勤していました。
なぜ、こんなことを私が知っているかというと、菊川町の匠也さんの実家の近所に、私の親しい友人がいて、その関係で、6年前の10月の中旬ごろ、匠也さんのお父さん、中村佑(たすく)さんとお話をさせていただく機会があったからです。
佑さんは、匠也さんの職場が貿易センタービルにあるとはご存じなかったそうです。テロ事件をテレビで観たときも、「たいへんなことがおこったなあ」と思った程度でした。その直後、匠也さんの奥さんの実家からの電話で、支店が貿易センタービルにあることを知り愕然とされました。
それでも、「あんなに大きなビルだし、下の階かも知れないし、逃げ出したに違いない」と自分に言い聞かせたと言われていました。
匠也さんがテロ事件に巻き込まれたことを決定付けたのは、銀行本店からの連絡でした。「支店は102階にあり、当日朝、匠也さんが出勤していたことが確認された」と知らされました。
すぐに駆けつけたかったのですが、非常事態宣言がしかれたため、アメリカ行きの飛行機は飛ばず、出発できたのは16日になりました。
ほこりがすごいからと防塵マスクまで準備されたそうですが、結局、センタービルには近づくことができず、ビルの谷間から見つめるだけだったそうです。
事件直後、佑さんも、「犯人は絶対に許さない。ぶん殴ってやりたい」と思ったそうです。しかし、米軍が報復戦争を開始した時は「とんでもないことをやってくれた」という怒りでした。
「国際法もあるのだから、テロの実行者をつかまえ、きちんと裁判にかけるべきだ。アメリカは世界一の大国。発言力もある。武力に頼らない世界のリーダーになろうとなぜ思わないのか」、日本政府の対応についても、当時はまだテロ特措法が成立しておらず、自衛隊の派兵は決まっていませんでしたが、「自衛隊派兵の既成事実をつくりたいとしか思えない。アメリカ言いなりでなく、本当の意味で自立してほしい。自立すれば別のやり方で対応できるはずだ」ときっぱりと話されました。
肉親を殺された怒りに胸は張り裂けんばかりだったとは思いますが、静かな語り口でした。
佑さんが最後に、「報復戦争なんてやめるべきだ。2人目、3人目の匠也を出してほしくない。せがれだって同じ思いだと思う」と話しておられたのを昨日のことのように思い出します。
佑さんは、昨年10月に開かれた「9条の会うべ」の発足記念「澤地久枝講演会」にも参加され、会の呼びかけ人にもなられたようです。
アフガンでのこれ以上の犠牲者を出すべきではありません。アメリカに対してただちに撤退を求めることが憲法9条をもつ国・日本の責任ではないでしょうか。
そして、まずなによりも、その戦争を手助けする自衛隊のインド洋への派兵などとんでもない話です。すぐにやめるべきです。
あらためて、中村匠也さんはじめ9・11のすべての犠牲者のみなさんに心からのご冥福をお祈りいたします。
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